人生の煮っ転がし

人生の煮っころがし

人間のクズと、いいニュース

私は私がとても大切で愛おしい。

 

これは物事を考えられるようになってからずっと抱いている嘘偽りのない思いである。

というかほぼすべての人がそうであるはずだと考えているし、そのくせ自分より大切な人がいる感を醸し出す人には苛立ちすら覚える。恋人なりなんなり、私に大切な人ができたとして、その人を大切にしたいのは私自身のためなのだ。

 

一応明言しておくが、なにも私は自分が誰より優れているとかルックスが良いとか人格者だとかそういうふうに思い、それゆえ大切にすべきと言いたいわけではない。というか人格に関していえばそれはそれはクソのようなものだと理解している。今回の本題もそれを露呈するものになるだろうけども。

私が私を大切にする理由はただひとつ。「自分だから」である。顔がしっちゃめっちゃかでも頭がすっとこどっこいでも関係ない。

 

私のすべての言動は「私がより幸せになるには」を基準に、選択肢のなかから選んだものであり他の誰のためでもない。もちろん必ず正解を選ぶことができるわけはない。私の選択によって私が不幸になったり苦労したわりに他者のみがプラスになったりもする。それでもそれは、「そのときの私が取り得るなか」で「そのときの私が考え得る」「私が幸せになるであろう選択」をしたことには間違いない。善行も、悪行も、すべては私のため。

 

例を挙げよう。

つい先日、雨のなか本屋に行ったらビニールの傘袋が階段に落ちていた。私はそれに気付き、それを拾い、ゴミ箱に捨てた。

 一見とてもわかりやすい善行だが、これは自然に私のためにやったことだ。

 

大事なのは「私はそれに気付き」の部分。

 

簡単に順を追って、私の行動原理を説明する。

 

1.階段に傘袋が落ちていることに気付く

2.「誰かがこれを踏んで転倒して死ぬ」可能性を見出す

3.私は傘袋の存在を認識したのでその“誰か”にはならない

4.しかし万が一私以外の誰かがその通りになったら、「私がその可能性に思い至り、防ごうと思えば少しの行動で防げた事故で人が死ぬ」ことになる

5.それはとっても胸糞悪い

6.傘袋を拾い、ゴミ箱に捨てる

 

こんな感じ。まあ実際は似たようなこと(コンビニののぼりが歩道に倒れてる・ゴミ袋が回収場から道に転がっているなど)がありふれているのでいちいちこんなはっきりとした思考を介することなく行動していると思うけど。

 

大事なのは「私がその対象に気付いてしまうか」という話。

 

簡単に言えば、私はわざわざ清掃活動のためにゴミを探しはしないし困っている人がいないかパトロールに出たりもしない。気付いてしまえば、私は自分が胸糞悪くなる可能性を見出してしまう恐れがある。その可能性を見出してしまえば、何らかのアクションを取らざるを得なくなる恐れがある。この時点で私にとってはマイナスなのだ。

 

私は確かな正義感のもと善行を行ったりしない。ましてや誰かに感謝されたくてなんてとんでもない。自分にとってマイナスになり得ると感じたときに、それをプラスマイナスゼロにするために仕方なくやる。

それが私にとってのいわゆる善行とよばれる行いである。

 

 

私が気付かなければ、それは存在しないのと同じ。

 

恐らくいまもどこかにゴミは落ちているし、どこかに困ったお年寄りなんかがいることだろう。しかし私が認識していない以上、それは可能性に過ぎない。

 

哲学的な話になってしまうけど、私が認識することで(私にとっての)世界は形成されると思っている。私に認識されなければ私にとっての世界には存在できない。

 

 

少し話が逸れるが、このことから私は遺産相続をしたいと全く思えない。(あげる金も人もいないんだけれど)

仮に私がめちゃくちゃ大金持ちで、仮にめちゃくちゃ大切な人がいて、仮に余命幾ばくもないとする。一般的には自分の死後、大切な人に自分の遺産が渡るように遺書を書いたり手続きしたりするのだろうけどそれが私にはわからない。どんなにキチンとした手続きをしてようがその金が本当に大切な人に渡ったのか認識できないではないか。だって死んでるんだもの。

私が認識できない以上、そんな手続きに意味はない。というか私が死ぬって世界が滅ぶのと同義なんだよね。いやいや、めちゃくちゃなことを言ってるのはわかってるんだけども。私が死んだら認識どころではないので、私の死後の世界は私にとって無そのもの。

 

そういう意味では

私の世界にとって私の命は世界中の人間の命を足しても足りないほど重い。

 

(「私の世界にとって」が大事だからね!)

 

 

だから私だったら生きてるうちに渡すかな。生前贈与ってやつ。それなら少なくとも世界が終わる(私が死ぬ)時点ではその金は大切な人のものであることは間違いないから。

 

これらは死後の世界・転生・幽霊として存在するとか、そういうものがないっていうのが大前提である。なので仮にそういったものの存在が証明されて、というか私がそういったものを信じる環境になったら、考え方は一変するかもしれないけども。

 

 

 

 

 はい。とりあえずここまで。恥ずかしげもなく自らの価値観じみたものを書いてきたけども。えーっと、人間のクズじゃねぇか。つくづく私みたいな思考の人間が蔓延ったらそれこそ世界の終わりだなと思う。

 

 

 

 さて、実はここからが本題なんですけど。

いままでのは前置きというか、予備知識というか、そういうやつです。

 

今日の本題はずばり、

 

 

 

「いいニュースだけニュースをみていたい」

 

 

 

ま、まあ説明をきいてくれよ。

先に述べた私のクソみてぇな人格に由来するんだけれども。

 

・私は私が最も大切。

・私は私が傷付いたり悲しんだりするのを甘んじて受け入れることはできない。

・私に認識されなければ私にとっての世界には存在できない

 

 

つまり、私が言いたいのは

 

 非道な事件も、クソみてぇないじめにパワハラセクハラも、政治家の不適切な発言も、どっかの国で人が死にまくってることも、ツナ缶の内容量が減って実質的に値上げしたことも、全部知りたくない!どうか私にそんなただ胸糞悪くなるだけの報せを届けないでくれ!

 

ということ。

 

 例えば私に超能力的なパワーがあって、事件を見事に解決し加害者を滅し、いじめセクハラパワハラを見事に解消し加害者を滅し、頭のおかしい政治家を見事に滅し、どっかの国に飛んで人々を救い、ツナ缶の値上げをなんとかすることができるのならばまだマシだ。話をきいた時点ではマイナスだが、行動してプラスマイナスゼロにできる。

 

 しかし残念なことに私にそんな力はない。だから悪いニュースというのは総じてただただ不快なだけ。たまったもんじゃない。私にどうすることもできないのなら、私の世界に入ってこないでほしい。

 

これはめちゃくちゃ無責任だ。無責任だがどうしようもないくらい正直な気持ちなのだ。私はただただ不快な思いをしたくない。嫌なものは嫌だ。私は情弱でいい。

 

故に私が求めるのが「いいニュースだけニュース」。

パンダが妊娠したとか、絶滅したと思われてたニホンなんとかが見つかったとか、ネギが豊作だとか、びっくり細胞が発見されて医療が進歩しそうだとか。そういう類の、いいニュース。

誰も不幸になってない、 大きく感情を揺さぶってくることもない、ニュース。地震情報も著名人の訃報も大臣の辞意表明も、なにひとつ飛び込みのニュースがない。ただゆったりと、ただただ安心して見ていられる。そんなニュース。そんなニュースなら見ていたい。

 

いや現実的にそんなものネタが少ないからできないだろうとか、そういう話じゃないよ。そんな悲しいこと言うもんじゃあない。 

 

 

 

私はただ、どうか私の世界は平和であってほしいと思う。それだけ。

 

 

 

おしまい。