コロッケコッペ

人生の煮っころがし

理性と足ぶらぶら

理性。

人間が先天的に、本来的に備える能力の一つ。

哲学者などによって解釈は大きく異なるが、ここでは最も一般的な日常単語としての理性と捉えます。

 

人間は理性があるから、突然人を殴ることもなく、突然スーパーに陳列された食べ物を食い漁ることもなく、突然素っ裸になって走り出すこともない。(例外の人がいたらごめんなさい。でもあなたが悪いです。)感情に走ることなく、己を律することができるのはこの理性の働きによるものである。

 

理性は本来空気のようなもの。必要ではあるがその存在を認識することはなく、いつでも当然のように働いているという類のもの。だが、強い感情を抱いたとき、私は理性の働きを自覚する。「ものすごく○○したい……」と思ってもギリギリでセーブする。いわゆる理性のブレーキというやつだ。

 

私には中学生の頃からよく理性を自覚する、あるシチュエーションがある。それは、1つのテーブルを挟み向かい合って対話するという場面である。ここでいうテーブルとは食卓のようなものではなく、会議テーブルなどの細長くて狭いもの。

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簡単な面談や、電化製品店や携帯ショップでの店員とのやり取りを想像してもらえればわかりやすいだろうか。学校によっては教師との面談もこのスタイルで行われることもあるだろう。このようなシチュエーションになると、私は無性に足をぶらぶら振り回したくなるのだ。ぶらーんぶらーんとしたくなる。それはもう、相当に強い衝動。自分でもなんでそんなことしたくなるのか見当がつかないが、同じシチュエーションになると決まってしたくなるのだ。しかし当然、そんなことをしたら相手の足を思いっきりガシガシ蹴りつける結果になる。対話相手の足を前触れなくガシガシ蹴りつけるという行為は社会的に認められるものではないということを私はよく知っている。なんとか衝動を抑え込まなくてはならない。理性をもって。ここで理性を自覚する。

なので正直このスタイルの面談やら相談やらは全く集中できない。上の空。私の頭の大部分は、ただ大人しく座っていることに忙しい。

 

このような、他の人には理解できないだろうけど、やたら何らかの衝動を駆り立てられるシチュエーションというのを誰しももっているのではないだろうか。決まったシチュエーションではないにしても、強く理性の働きを感じる瞬間があるのではないだろうか。

理性のブレーキがかかるということは、その衝動は応えるわけにはいかないものということ。

 

この社会はみんなの理性のブレーキによって、ほんのギリギリのところで社会たり得ているのかもしれませんね。