人生の煮っ転がし

人生の煮っころがし

あの日のパピコに想いを馳せる

昨年4月に就職し新社会人として労働を重ねる日々。そんななか最近の私はといえば、コンビニでのアルバイト時代の記憶を想起することが増えた。言うまでもないことだが、いまの仕事がつらくて仕方がないからである。

 

コンビニやファミレスとなるとどこの店舗にも変わった常連客というのがいるもので、私の勤める店も例外ではなかった。

コンビニというのは都会に住む現代人にとって非常に身近な存在である。故にそれぞれが構えることなく、また落ち着くこともなく、立ち止まることもなく、確かな「個」を保ったまま利用するのであろうと私は思う。

 

・定期的に来てガリガリ君を数十本買って帰るおばあちゃん(夫婦で食べるらしい)

・「めちゃくちゃ熱くチンしてくれ」とカレーうどんを買うおっさん(規定の時間でチンしてもカレーうどんはめちゃくちゃ熱くなる)

・さけるチーズとでかいリプトンを買っていく女子高生(長いストロー必須)

・お菓子とパンを買って、おつりを受け取るとき小さい両手で私の手を包み込んでくれる女子高生(当時私は心の中で「天使」と呼んでいた)

・注射器を持って暴れ回るおじさん(出禁になってからしばらくあと逮捕されたらしい)

・入店して一目散にレジ前に突っ込んで来て「アメド5本!マスタードあり!」とまくし立てるおばさん(アメリカンドッグを買った人にはケチャップのみの小袋かケチャップとマスタードセットのアレかどちらが欲しいか訊くことになっている)

 

いまパッと思い出せるだけでもかなりバラエティーに富んだ面々である。彼ら彼女らと私の間には簡単に語ることができないドラマがあった。あったような気がする。

 

このように非常にユニークな常連客のなかでも私には今でも気になっている客、いや、気になっているものがある。

 

 2,3週に一度ほどのペースで来店する3人組の女の子たちがいた。小学校中学年くらいじゃないかと思う。その子たちは毎回、お金を出し合ってパピコを2つ買って行く。パピコ。ご存知のことと思うが、グリコが発売している2本入りのチューブ型アイスである。そう、2本入りのアイスなのだ。3人で4本のパピコを得るという行為。一度ならまだしも、それを継続するという彼女たち。当時の私は残り1本のパピコの行方を考えに考えて、けれど答えを訊けずにいた。訊く勇気がなかった。訊いてはいけない気がした。彼女たちの世界に踏み入る覚悟を持ち合わせていなかった。(本当は単に防犯ブザーが怖かった)

 

残る1本のパピコの行方。

考えられる可能性は 

 

①3人で分け合って食べる

②3人のうちの誰かが食べる(1人だけ2本食べる)

③3人以外の誰かにあげる

④誰も食べない

 

大きく分けてこの4通りだ。

順に考察していきたい。

 

 3人で分け合って食べる

パピコの形状から1本を分け合うのには不向きであり、可能性は薄そうだ。

 

 

②3人のうちの誰かが食べる

これが可能性としては一番高いだろうか。

この場合、2本食べる子は毎回違うというパターンといつも同じ子が2本食べるパターンがある。

毎回違う子が食べるパターンは楽しそうだ。その都度じゃんけんをして決めるなどゲーム性を持たせていたり、輪番制で2本食べる日をまわしていたりするのだろう。

 

対して、いつも同じ子が2本食べるというパターン。これは歪な関係と言わざるを得ない。みんなでお金を出し合ってアイスを買い、しかし特定の子がいつも多く食べる。これほど歪な関係があるだろうか。誰かが一方的にお金を払わされているというほうがはるかに理解しやすい。特定の1人に金銭を要求しながら、はっきりといじめながら、それでも「これはいじめではない」という共通認識を持つための儀式として1本アイスを食べさせているのだろう。

みんなでお金を出し合っている。

この点が3人の関係の歪さ・不気味さを物語っている。きっと私などには想像し得ない経緯、感情のもとこの危うい関係を維持しているのだろう。不意にいつも2本食べる子が「わたし1本でいいよ」などと言い出そうものなら、たちまちに彼女らの関係は瓦解し取り戻すことができなくなる。そうに違いない。私としてはこの「3人のうちいつも同じ子が2本食べる」というパターンが最も望まない恐ろしい道だ。

 

 

③3人以外の誰かが食べる

そして私がぜひこうであってほしいと望む可能性がこれである。 切なく、しかし優しさに溢れるこの可能性。3人以外の誰かが食べる。

これもさらに2パターンに細分化しよう。

 

3人は1本も食べずに誰かに2袋(4本)あげる

3人で1本ずつ食べて残りの1本を誰かにあげる

 

この2通りである。厳密に言えば3人で1袋(2本)を食べもう1袋誰かにあげるパターンや3人のうち1人だけで1袋食べもう1袋は誰かにあげるパターンなどもあるが、これらはあまりに考え難いので無視する。

上記2通りのどちらにせよ小学生がお小遣いを出し合って定期的にアイスを買ってあげるのだ。3人の共通の知人、それも3人にとって大切な人物にプレゼントしていると考えるのが自然だろう。さらに言えば、物がアイスであることや小学生3人の共通の知人であることを考えると同程度の年齢の子どもである可能性が高い。そして私が非常に重要な点だと捉えるのが、プレゼントがパピコであるということだ。パピコは地域限定品でもなんでもない。私のバイト先のコンビニ以外でも容易に購入できる定番のアイス。そしてアイスは冷凍保存が必要なもの。

つまり、プレゼントの贈り相手は

 

3人が容易に、アイスのとけないうちに会いに行ける距離にいながらしかし一緒には買いに行くことができない人物

 

ということになる。

 

もうこれだけで私はうるうるきてしまう。

 

病気・怪我(それも長い間買い物ができないほど深刻な状態)で苦しむ友に渡すのかもしれない。

親が厳しく、自由に買い物ができない友に持っていき隠れてアイスの美味しさを分かち合うためかもしれない。

お世話になった近所のおじいさんおばあさんに1本ずつあげるのかもしれない。たくさん遊んでもらったが、今は足を悪くしてなかなか動けないのかもしれない。

 

 さらに、贈るものがずっと変わらずパピコであることを考えるとこんなストーリーも頭に浮かんでしまう。即ち、

 

今は亡き親友とともにパピコを食べている

 

 という可能性。

きっと親友はパピコが大好きだったのだろう。

いや、一度「これおいしいねっ!」と食べていただけかもしれない。死者の好みが更新されることはない。生者の記憶によって固定される。何年経っても親友の好きな食べ物はパピコ。故にみんなでパピコを食べる。

 

みんなでお金を出し合って、大切な人にあげるのではなく、一緒に同じものを味わう。共に分かち合うのだ。こんなにも美しく切ない情景があろうか。そこに私も店員Aとして関わることができたのであれば、私の退屈で惰性的だったアルバイトにも少しは意義があったと思える。故にこの3人以外の誰かが食べていた、そうあってほしいと願う。

 

 

④誰も食べない

 これはもうほとんどありえない妄想なんだけど、1つ思い浮かんだので記しておきたい。(今までのも妄想か。)

お金を出し合って買っているくらいなのだから、ただそのまま捨てるという選択は考え難い。というか考えたくない。では、誰も食べないとはどういうことか。

小学生。お金を出し合う。同じアイスを買う。同じアイスを、何度も買う。小学生……

 

 

あーわかった、

夏休みの自由研究としてでっかいパピコ、巨パピコを作るんだ!そのために3人で協力してパピコをためてるんだ!3人で共同で取り組む長期計画なんだ!そうに違いない!

 

 

 

 

 

 はい。以上です。

 

 

 今となってはあのパピコの行方は永遠に謎のままである。あの3人がどんな想いでパピコを買っていたのか。あの3人にしかわからない。

ただ私は、今もみんなでパピコを食べていてほしいなと思う。

 

 

 

 

 

 

 

ちなみに、もう1人、気になる常連客がいる。

毎週月曜日に来て缶コーヒーを1つ買い、タウンワークを持って帰るおじさん。

無料の求人誌だけ持って帰るのは気が引けたのだろう。いつもBOSSの缶コーヒー1つを買っていった彼にも、どうか幸せになっていてほしい。