コロッケコッペ

人生の煮っころがし

寿命を1日短くしてもいいから、走馬灯を24時間ぶっ続け上映してほしい

走馬灯。

死の間際、死を覚悟した瞬間に去来するといわれる人生の様々な記憶。

本来は走馬灯とは単に回り燈籠のことであり、「走馬灯のように」見えるといわれる上記のビジョンはパノラマ記憶やライフレビューなどと呼ぶらしい。まあそんなことはどうでもいい。便宜的にここでは走馬灯と呼ぶことにする。

 

死に直面する際、よい人生だったと思えるかそうでもなかったと思うかはわからない。いやでも仮にあと数秒で死ぬと認識できたら、結局「よい人生だった」と無意識に思い込もうとする気がする。私はそういうやつだ。

 

それは置いておくとして。

私は走馬灯をみたい。いい記憶も悪い記憶もしっかりみたい。

この走馬灯、臨死体験者(死に直面した人)の25〜30%が体験したという調査もあるほどで、思ったほど稀な現象ではないらしい。それならば来たるその日、私も走馬灯をみてみたいと強く思う。

 

最近気付いたことだが、私はとかく"懐かしい"という感情に弱い。昔の大変だったこと・楽しかったこと・頑張ったことなどをふとしたきっかけで思い出すと、なんとも言えないじんわりした気持ちになる。当時大変だったことやつらかったことを思い出しても、不思議とただ不快なだけの感情にはならない。

なんというか、思い出に飢えているのかもしれない。

 

まぁただ、何もしてなさすぎて思い出せることが極端に少ないんだけど……

 

 

 

 

走馬灯はいわば最期の思い出振り返りタイムだ。だったら私は、じっくりみっちり味わいたいなと思う。じんわりして逝きたい。

 

できることなら、素敵な思い出の配分を長めで上映をお願いしたい。

そして、私の人生に深く関わった人や物の名前がずらっと流れるエンドロールで涙を流して逝きたい。

 

 

 

 

まさかのCパート突入で蘇生したい。

 

従業員用通用口に魅了される

従業員用通用口に魅了される。
そんな話をきいてほしい。


接客業のアルバイト・仕事をしたことがある人は利用したことがあるであろう従業員用通用口。また、その経験がない人でもよく目にしているであろう従業員用通用口。想像しにくければ単にバックヤードへの扉と考えてもらってもいい。(厳密には違うが)

私が従業員用通用口の魅力に気付いてしまったのは東急ハンズで短期アルバイトをしていたときだ。東急ハンズ。ご存じの方が多いと思うが、池袋・渋谷・新宿などの大都市に店を構えるホームセンターである。文具や生活雑貨、インテリア、家電など幅広い品揃えで人気のお店。

また、東急ハンズはわりと店員がテキパキとしっかりしている印象が強い。(店舗にもよるのだろうけど)
しかし当然ではあるが、テキパキと仕事をする人は裏でも常に気を張っているわけではない。


つまり、店頭での仕事を終えて店側から従業員用出通用口の扉を開ける人はめちゃくちゃゆるんだ顔、出勤し準備を整えいざ戦場である店内に赴く人は完全に接客の顔なのだ。

これが面白い。

多くの百貨店などで共通することだが、店内から従業員用通用口を通り裏に戻るときは店内の方を向いて一礼するのが規則になっている。真面目でキリッと、あるいは軽い接客スマイルの明るい表情で一礼して、客側に背を向け、扉を開ける。ここでやっと“オフ”の顔になる。

逆に従業員用通用口から店内に入る場合は「いらっしゃいませ」などと軽く声を出しながらというのが規則になっている店もある。そのときは当然“オン”だ。


それを見てるだけで、従業員用通用口という1枚の扉の内と外でこうも世界が違うのだということを感じさせられる。百貨店のように接客のレベルが高いほど、店員がテキパキとしているほど、その扉の魅力が増す。「あっ!いまスイッチ入るの遅かったかも!キリッとする瞬間見れた!」とか、さっきまであんなにハキハキしていた店員さんもこの扉の先ではなよっとした表情してるのかなとか、考えるだけで楽しい。

まるで異世界



“オキャクサマノマエ”という名の異世界
異世界には異世界の、破ることの許されないルールがある。ルールを無視し、下手を打てば死ぬ。そんな世界。
異世界に飛び込むには相応の装備が必要となる。そしてその装備というのが顔、表情なのだ。装備を整え、死地に赴く多くの戦士たち。
所定位置で敵を迎え撃つ迎撃部隊。難敵の襲来を伝えに戻る尖兵。役目を果たし無事帰還する遊撃部隊。負傷し後退してきた若年兵に代わり、重い腰を上げる老兵。

人が戦士に、戦士が人に。変化する。
その境界線となる従業員用通用口。






そんなことをぼんやり考えながら、デパートの従業員用通用口を見つめていた私。
そんな私と目が合った一人の女性従業員。



従業員「何かお困りですか?」
私「い、いえ、すみません……」





優しく語りかけてくる彼女の姿が、私には勇敢な戦士にしか見えなかった。

あの日のパピコに想いを馳せる

昨年4月に就職し新社会人として労働を重ねる日々。そんななか最近の私はといえば、コンビニでのアルバイト時代の記憶を想起することが増えた。言うまでもないことだが、いまの仕事がつらくて仕方がないからである。

 

コンビニやファミレスとなるとどこの店舗にも変わった常連客というのがいるもので、私の勤める店も例外ではなかった。

コンビニというのは都会に住む現代人にとって非常に身近な存在である。故にそれぞれが構えることなく、また落ち着くこともなく、立ち止まることもなく、確かな「個」を保ったまま利用するのであろうと私は思う。

 

・定期的に来てガリガリ君を数十本買って帰るおばあちゃん(夫婦で食べるらしい)

・「めちゃくちゃ熱くチンしてくれ」とカレーうどんを買うおっさん(規定の時間でチンしてもカレーうどんはめちゃくちゃ熱くなる)

・さけるチーズとでかいリプトンを買っていく女子高生(長いストロー必須)

・お菓子とパンを買って、おつりを受け取るとき小さい両手で私の手を包み込んでくれる女子高生(当時私は心の中で「天使」と呼んでいた)

・注射器を持って暴れ回るおじさん(出禁になってからしばらくあと逮捕されたらしい)

・入店して一目散にレジ前に突っ込んで来て「アメド5本!マスタードあり!」とまくし立てるおばさん(アメリカンドッグを買った人にはケチャップのみの小袋かケチャップとマスタードセットのアレかどちらが欲しいか訊くことになっている)

 

いまパッと思い出せるだけでもかなりバラエティーに富んだ面々である。彼ら彼女らと私の間には簡単に語ることができないドラマがあった。あったような気がする。

 

このように非常にユニークな常連客のなかでも私には今でも気になっている客、いや、気になっているものがある。

 

 2,3週に一度ほどのペースで来店する3人組の女の子たちがいた。小学校中学年くらいじゃないかと思う。その子たちは毎回、お金を出し合ってパピコを2つ買って行く。パピコ。ご存知のことと思うが、グリコが発売している2本入りのチューブ型アイスである。そう、2本入りのアイスなのだ。3人で4本のパピコを得るという行為。一度ならまだしも、それを継続するという彼女たち。当時の私は残り1本のパピコの行方を考えに考えて、けれど答えを訊けずにいた。訊く勇気がなかった。訊いてはいけない気がした。彼女たちの世界に踏み入る覚悟を持ち合わせていなかった。(本当は単に防犯ブザーが怖かった)

 

残る1本のパピコの行方。

考えられる可能性は 

 

①3人で分け合って食べる

②3人のうちの誰かが食べる(1人だけ2本食べる)

③3人以外の誰かにあげる

④誰も食べない

 

大きく分けてこの4通りだ。

順に考察していきたい。

 

 3人で分け合って食べる

パピコの形状から1本を分け合うのには不向きであり、可能性は薄そうだ。

 

 

②3人のうちの誰かが食べる

これが可能性としては一番高いだろうか。

この場合、2本食べる子は毎回違うというパターンといつも同じ子が2本食べるパターンがある。

毎回違う子が食べるパターンは楽しそうだ。その都度じゃんけんをして決めるなどゲーム性を持たせていたり、輪番制で2本食べる日をまわしていたりするのだろう。

 

対して、いつも同じ子が2本食べるというパターン。これは歪な関係と言わざるを得ない。みんなでお金を出し合ってアイスを買い、しかし特定の子がいつも多く食べる。これほど歪な関係があるだろうか。誰かが一方的にお金を払わされているというほうがはるかに理解しやすい。特定の1人に金銭を要求しながら、はっきりといじめながら、それでも「これはいじめではない」という共通認識を持つための儀式として1本アイスを食べさせているのだろう。

みんなでお金を出し合っている。

この点が3人の関係の歪さ・不気味さを物語っている。きっと私などには想像し得ない経緯、感情のもとこの危うい関係を維持しているのだろう。不意にいつも2本食べる子が「わたし1本でいいよ」などと言い出そうものなら、たちまちに彼女らの関係は瓦解し取り戻すことができなくなる。そうに違いない。私としてはこの「3人のうちいつも同じ子が2本食べる」というパターンが最も望まない恐ろしい道だ。

 

 

③3人以外の誰かが食べる

そして私がぜひこうであってほしいと望む可能性がこれである。 切なく、しかし優しさに溢れるこの可能性。3人以外の誰かが食べる。

これもさらに2パターンに細分化しよう。

 

3人は1本も食べずに誰かに2袋(4本)あげる

3人で1本ずつ食べて残りの1本を誰かにあげる

 

この2通りである。厳密に言えば3人で1袋(2本)を食べもう1袋誰かにあげるパターンや3人のうち1人だけで1袋食べもう1袋は誰かにあげるパターンなどもあるが、これらはあまりに考え難いので無視する。

上記2通りのどちらにせよ小学生がお小遣いを出し合って定期的にアイスを買ってあげるのだ。3人の共通の知人、それも3人にとって大切な人物にプレゼントしていると考えるのが自然だろう。さらに言えば、物がアイスであることや小学生3人の共通の知人であることを考えると同程度の年齢の子どもである可能性が高い。そして私が非常に重要な点だと捉えるのが、プレゼントがパピコであるということだ。パピコは地域限定品でもなんでもない。私のバイト先のコンビニ以外でも容易に購入できる定番のアイス。そしてアイスは冷凍保存が必要なもの。

つまり、プレゼントの贈り相手は

 

3人が容易に、アイスのとけないうちに会いに行ける距離にいながらしかし一緒には買いに行くことができない人物

 

ということになる。

 

もうこれだけで私はうるうるきてしまう。

 

病気・怪我(それも長い間買い物ができないほど深刻な状態)で苦しむ友に渡すのかもしれない。

親が厳しく、自由に買い物ができない友に持っていき隠れてアイスの美味しさを分かち合うためかもしれない。

お世話になった近所のおじいさんおばあさんに1本ずつあげるのかもしれない。たくさん遊んでもらったが、今は足を悪くしてなかなか動けないのかもしれない。

 

 さらに、贈るものがずっと変わらずパピコであることを考えるとこんなストーリーも頭に浮かんでしまう。即ち、

 

今は亡き親友とともにパピコを食べている

 

 という可能性。

きっと親友はパピコが大好きだったのだろう。

いや、一度「これおいしいねっ!」と食べていただけかもしれない。死者の好みが更新されることはない。生者の記憶によって固定される。何年経っても親友の好きな食べ物はパピコ。故にみんなでパピコを食べる。

 

みんなでお金を出し合って、大切な人にあげるのではなく、一緒に同じものを味わう。共に分かち合うのだ。こんなにも美しく切ない情景があろうか。そこに私も店員Aとして関わることができたのであれば、私の退屈で惰性的だったアルバイトにも少しは意義があったと思える。故にこの3人以外の誰かが食べていた、そうあってほしいと願う。

 

 

④誰も食べない

 これはもうほとんどありえない妄想なんだけど、1つ思い浮かんだので記しておきたい。(今までのも妄想か。)

お金を出し合って買っているくらいなのだから、ただそのまま捨てるという選択は考え難い。というか考えたくない。では、誰も食べないとはどういうことか。

小学生。お金を出し合う。同じアイスを買う。同じアイスを、何度も買う。小学生……

 

 

あーわかった、

夏休みの自由研究としてでっかいパピコ、巨パピコを作るんだ!そのために3人で協力してパピコをためてるんだ!3人で共同で取り組む長期計画なんだ!そうに違いない!

 

 

 

 

 

 はい。以上です。

 

 

 今となってはあのパピコの行方は永遠に謎のままである。あの3人がどんな想いでパピコを買っていたのか。あの3人にしかわからない。

ただ私は、今もみんなでパピコを食べていてほしいなと思う。

 

 

 

 

 

 

 

ちなみに、もう1人、気になる常連客がいる。

毎週月曜日に来て缶コーヒーを1つ買い、タウンワークを持って帰るおじさん。

無料の求人誌だけ持って帰るのは気が引けたのだろう。いつもBOSSの缶コーヒー1つを買っていった彼にも、どうか幸せになっていてほしい。

 

人間のクズと、いいニュース

私は私がとても大切で愛おしい。

 

これは物事を考えられるようになってからずっと抱いている嘘偽りのない思いである。

というかほぼすべての人がそうであるはずだと考えているし、そのくせ自分より大切な人がいる感を醸し出す人には苛立ちすら覚える。恋人なりなんなり、私に大切な人ができたとして、その人を大切にしたいのは私自身のためなのだ。

 

一応明言しておくが、なにも私は自分が誰より優れているとかルックスが良いとか人格者だとかそういうふうに思い、それゆえ大切にすべきと言いたいわけではない。というか人格に関していえばそれはそれはクソのようなものだと理解している。今回の本題もそれを露呈するものになるだろうけども。

私が私を大切にする理由はただひとつ。「自分だから」である。顔がしっちゃめっちゃかでも頭がすっとこどっこいでも関係ない。

 

私のすべての言動は「私がより幸せになるには」を基準に、選択肢のなかから選んだものであり他の誰のためでもない。もちろん必ず正解を選ぶことができるわけはない。私の選択によって私が不幸になったり苦労したわりに他者のみがプラスになったりもする。それでもそれは、「そのときの私が取り得るなか」で「そのときの私が考え得る」「私が幸せになるであろう選択」をしたことには間違いない。善行も、悪行も、すべては私のため。

 

例を挙げよう。

つい先日、雨のなか本屋に行ったらビニールの傘袋が階段に落ちていた。私はそれに気付き、それを拾い、ゴミ箱に捨てた。

 一見とてもわかりやすい善行だが、これは自然に私のためにやったことだ。

 

大事なのは「私はそれに気付き」の部分。

 

簡単に順を追って、私の行動原理を説明する。

 

1.階段に傘袋が落ちていることに気付く

2.「誰かがこれを踏んで転倒して死ぬ」可能性を見出す

3.私は傘袋の存在を認識したのでその“誰か”にはならない

4.しかし万が一私以外の誰かがその通りになったら、「私がその可能性に思い至り、防ごうと思えば少しの行動で防げた事故で人が死ぬ」ことになる

5.それはとっても胸糞悪い

6.傘袋を拾い、ゴミ箱に捨てる

 

こんな感じ。まあ実際は似たようなこと(コンビニののぼりが歩道に倒れてる・ゴミ袋が回収場から道に転がっているなど)がありふれているのでいちいちこんなはっきりとした思考を介することなく行動していると思うけど。

 

大事なのは「私がその対象に気付いてしまうか」という話。

 

簡単に言えば、私はわざわざ清掃活動のためにゴミを探しはしないし困っている人がいないかパトロールに出たりもしない。気付いてしまえば、私は自分が胸糞悪くなる可能性を見出してしまう恐れがある。その可能性を見出してしまえば、何らかのアクションを取らざるを得なくなる恐れがある。この時点で私にとってはマイナスなのだ。

 

私は確かな正義感のもと善行を行ったりしない。ましてや誰かに感謝されたくてなんてとんでもない。自分にとってマイナスになり得ると感じたときに、それをプラスマイナスゼロにするために仕方なくやる。

それが私にとってのいわゆる善行とよばれる行いである。

 

 

私が気付かなければ、それは存在しないのと同じ。

 

恐らくいまもどこかにゴミは落ちているし、どこかに困ったお年寄りなんかがいることだろう。しかし私が認識していない以上、それは可能性に過ぎない。

 

哲学的な話になってしまうけど、私が認識することで(私にとっての)世界は形成されると思っている。私に認識されなければ私にとっての世界には存在できない。

 

 

少し話が逸れるが、このことから私は遺産相続をしたいと全く思えない。(あげる金も人もいないんだけれど)

仮に私がめちゃくちゃ大金持ちで、仮にめちゃくちゃ大切な人がいて、仮に余命幾ばくもないとする。一般的には自分の死後、大切な人に自分の遺産が渡るように遺書を書いたり手続きしたりするのだろうけどそれが私にはわからない。どんなにキチンとした手続きをしてようがその金が本当に大切な人に渡ったのか認識できないではないか。だって死んでるんだもの。

私が認識できない以上、そんな手続きに意味はない。というか私が死ぬって世界が滅ぶのと同義なんだよね。いやいや、めちゃくちゃなことを言ってるのはわかってるんだけども。私が死んだら認識どころではないので、私の死後の世界は私にとって無そのもの。

 

そういう意味では

私の世界にとって私の命は世界中の人間の命を足しても足りないほど重い。

 

(「私の世界にとって」が大事だからね!)

 

 

だから私だったら生きてるうちに渡すかな。生前贈与ってやつ。それなら少なくとも世界が終わる(私が死ぬ)時点ではその金は大切な人のものであることは間違いないから。

 

これらは死後の世界・転生・幽霊として存在するとか、そういうものがないっていうのが大前提である。なので仮にそういったものの存在が証明されて、というか私がそういったものを信じる環境になったら、考え方は一変するかもしれないけども。

 

 

 

 

 はい。とりあえずここまで。恥ずかしげもなく自らの価値観じみたものを書いてきたけども。えーっと、人間のクズじゃねぇか。つくづく私みたいな思考の人間が蔓延ったらそれこそ世界の終わりだなと思う。

 

 

 

 さて、実はここからが本題なんですけど。

いままでのは前置きというか、予備知識というか、そういうやつです。

 

今日の本題はずばり、

 

 

 

「いいニュースだけニュースをみていたい」

 

 

 

ま、まあ説明をきいてくれよ。

先に述べた私のクソみてぇな人格に由来するんだけれども。

 

・私は私が最も大切。

・私は私が傷付いたり悲しんだりするのを甘んじて受け入れることはできない。

・私に認識されなければ私にとっての世界には存在できない

 

 

つまり、私が言いたいのは

 

 非道な事件も、クソみてぇないじめにパワハラセクハラも、政治家の不適切な発言も、どっかの国で人が死にまくってることも、ツナ缶の内容量が減って実質的に値上げしたことも、全部知りたくない!どうか私にそんなただ胸糞悪くなるだけの報せを届けないでくれ!

 

ということ。

 

 例えば私に超能力的なパワーがあって、事件を見事に解決し加害者を滅し、いじめセクハラパワハラを見事に解消し加害者を滅し、頭のおかしい政治家を見事に滅し、どっかの国に飛んで人々を救い、ツナ缶の値上げをなんとかすることができるのならばまだマシだ。話をきいた時点ではマイナスだが、行動してプラスマイナスゼロにできる。

 

 しかし残念なことに私にそんな力はない。だから悪いニュースというのは総じてただただ不快なだけ。たまったもんじゃない。私にどうすることもできないのなら、私の世界に入ってこないでほしい。

 

これはめちゃくちゃ無責任だ。無責任だがどうしようもないくらい正直な気持ちなのだ。私はただただ不快な思いをしたくない。嫌なものは嫌だ。私は情弱でいい。

 

故に私が求めるのが「いいニュースだけニュース」。

パンダが妊娠したとか、絶滅したと思われてたニホンなんとかが見つかったとか、ネギが豊作だとか、びっくり細胞が発見されて医療が進歩しそうだとか。そういう類の、いいニュース。

誰も不幸になってない、 大きく感情を揺さぶってくることもない、ニュース。地震情報も著名人の訃報も大臣の辞意表明も、なにひとつ飛び込みのニュースがない。ただゆったりと、ただただ安心して見ていられる。そんなニュース。そんなニュースなら見ていたい。

 

いや現実的にそんなものネタが少ないからできないだろうとか、そういう話じゃないよ。そんな悲しいこと言うもんじゃあない。 

 

 

 

私はただ、どうか私の世界は平和であってほしいと思う。それだけ。

 

 

 

おしまい。

 

 

マカロンを都落ちさせてみたい

かわいいお菓子といえばマカロンである。贈り物・手土産としても人気が高くスウィーツ店やケーキ屋に行けばだいたいいくつかの種類が販売している。バレンタインデーやホワイトデーの時期にもボンボンショコラやガトーショコラなど歴戦の実力者に負けず劣らずの商品展開をみせるお店もある。

 

 私はマカロンを含めスウィーツ全般けっこう好きだ。しかしだからこそ気になってしまう。マカロンの人気を素直に受け入れられない。カロンは本当にその実力で今の地位を築き上げたのだろうか?みんなマカロンに甘い幻想をみているのではないだろうか?(スウィーツだけに)

 

 そういうことで一つ考察をしてみたいと思う。

 

 

ちなみに“スウィーツ”とか書いたけど私はこの呼称にまだ若干の恥じらいを感じてしまう。スウィーツて。スウィーて。スウィーツという呼称には都会的な、あるいは煌びやかな雰囲気を感じるからだろう。私は彼らをスウィーツと呼ぶに相応しい人間ではないのではないか。しかしそれならばと“甘いもの”などと呼ぼうものなら急激に年寄りくさくなってしまう。実に悩ましい。実に悩ましいがここではスウィーツと呼ばせていただこうと思う。恥じらいながら。

  

まず、マカロンの人気について。マカロンの人気は味や見た目以上に、そのなんともかわいすぎる名前の力が大きいのではないかと私は考えている。もちろん美味しくないわけではないけど、“これはマカロンという名のスウィーツである”という認識が少なからず影響している気がする。というか「マカロンください」って言うだけでもうかわいいし。ケバい化粧で不良とつるみ近寄りがたい雰囲気を放つギャルも、黒いスーツを着た強面で肩幅が広いおじさんも、この言葉を発しているその瞬間だけはかわいさで溢れているのではないだろうか。

 

 

私は個人経営の洋菓子屋でバイトしてる男子高校生。大通りから外れたところにある小さなお店。数人の常連客以外は滅多に来ない。退屈な店番。

カランコロン。1時間弱ぶりに聞くドアベルの音。

女の子「あっ……」

去年同じクラスだった女の子。名前はなんていったっけ。地味目で気に留めたこともない女の子だ。この店に来るのは初めてだろう。

女の子「あの……このマカロン5個セット、ください……。」

私「えっ、あっ、はい!1296円でございます……!!」

 

 私「ありがとうございました……。」

 

私「……………………。」

 

 

 

 

ほら、やっぱり。やっぱりかわいい。もう私は彼女のことが気になってしまう。次の日から彼女のクラスの前をうろうろすることになる。お店のチラシを渡すという口実で彼女に話しかけたいけど勇気がなくもじもじすることになる。

ちなみにわかりやすく私を男子高校生という設定にしたけど、性別は問わず、また相手を教師やいつも同じバスに乗る人、隣の家の子などにしてもだいたい同じ結果になります。ただし自宅用であることが不可欠。

 

 


さて、仮にマカロンという名前がかわいすぎることがマカロンが高い地位に至った大きな要因だとするならば。であるならば、だ。

 

 

 

もしマカロンが『ドロタボー』 という名前だったら。

 

カロンがそのかわいらしい名前を獲得しなかったら、ドロタボーという名を授かり生まれてきたら、その味と見た目だけで現在の地位まで登りつめることができただろうか。
カロンが好きだと話していた人達はドロタボーを買って食べるだろうか。ガトーショコラやボンボンショコラと同じだけスペースを使っていたお店はドロタボーにスペースを割くだろうか。ドロタボーを買いに来た女の子に男子高校生の私はときめきを感じるだろうか。

 

スウィーツ店の端っこにあったりなかったりするような、スウィーツ好きなら知っているような、何かの機会に初めて食べて「へぇ〜、こんなのがあるのか。」で終わるような、そんな外国のお菓子くらいのポジションに落ち着くのではないだろうか。(現在のギモーヴくらいのポジション)

 

 

 

 

そんなことを私はぼけーっと考えていました。

 

 

 

 

はい。以上が私の思い描くマカロン都落ち

おしまい。もうやめます。自分でも何をいっているのかわからない。マカロン都落ちってなによ。

 

 

 

ちなみにドロタボーとはファイナルファンタジー13-2に出てくるモンスター。大して強くない。


 

休日のトイレにはギミックが必要

今回の話はすぐに終わります。
自宅のトイレにはギミックが必要だという話。特に休日における自宅のトイレについて話をしたい。一応補足しておくとギミックというのは仕掛け・からくりという意味。大丈夫ですか。続けますよ。


皆さんトイレに入るのはどんなときだろうか。
もしかして尿意及び便意を催したときではないだろうか。そうでしょうね、私もそうだもん。

トイレに入るということは、そのときやっていたことを中断するということだ。私たちは取り組んでいたアクション(家事をする、テレビを見る、本を読む、眠るなど様々)を中断してまでトイレに向かう。あるいは「区切り」になることも多い。食事を終えて、テレビを見終えて、本を読み終えて。

どちらにせよ、流れが途切れる。それがトイレに入るという行為だ。

 

 

 

休日、日曜日の昼下がり。自宅でゲームをしていた私。(何でもいいが、ここではアクションを“ゲーム”とする) 

「どうしてもあいつ倒せないな〜」

なんとなく尿意を催す。ポーズ画面にして席を立ち、トイレに向かう。

「あ、じゃあ次はあの武器使ってみるか」

トイレに入り、腰掛ける。

 

 

「………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………はぁ〜〜〜〜。」

 

 

 

 

 

 

 はい。わかりますか。そう、トイレに入るとまぁ〜〜我に返る。テンションが強制シャットダウンされる感じ。それも休日はとくに。もう回帰するのが難しいレベルで気分が落ちる。お手軽につらい。

 

そこで私は考えた。トイレに入っても我に返ることなく楽しい気分・落ち着いた気持ちを維持するにはどうすればよいのか。

 

 

辿り着いた答えがギミックである。

 

 

まず、みなさん自宅のトイレを思い浮かべてほしい。よほどの金持ちでなければ、座ったらわりと壁がすぐ目の前ではないだろうか。そして左右も壁。何かがあるにしてもだいたいカレンダーやちょっとした置物くらいだろう。これがまずいのではないか。

 

・取り組んでいたことを中断している(区切りがついている)

・前後左右を壁に囲まれている

・基本的になにも持っていない

・腰掛けている

 

ほら。これは我にも返るよ。まずいまずい。

要は、手持ち無沙汰なのである。(排泄中に手持ち無沙汰とは何事かという気もするが)

 

そこで、ギミックの出番。

便器に腰掛けてから排泄を終えるまでテンションをつなぐギミックである。腹痛や便秘などでなければ、せいぜい2〜5分といったところだろう。その間、意識を向けられるもの。ギミックとかっこよく書いてはいるが単におもちゃと考えてもらってもかまわない。ぐるぐる鳥が飛ぶやつとか、わけありげなボタンとか、よくわからんトゲトゲが床から生えてるとか、なぞパズルとか。(なぞパズル?)  

そういったギミックをできるだけたくさん、たくさんトイレに仕掛ける。例えるなら幼児が遊ぶ自宅用のジャングルジム。あるいはクッパ城の奥のほう。やたら仕掛けがある感じ。そんな感じのDIYが流行ってもいいような気がする。

仕掛けが1種だけだとどうしてもすぐに飽きがくるからね。手ではギミックを弄びながらも頭では我に返る。そんなことになったら目も当てられない。いつも以上に自分が情けなくなること請け合いである。

したがってできるだけたくさんのギミックを仕掛け、また定期的に取り替えるのが効果的だろうと私は思う。

 

 

 

 

さて、以上だけれども。どうだろうか。

まあどうだろうかとかいわれてもね。でも“トイレに行くと我に返ってしまい憂鬱になる”というスタートのところは共感していただける人が少しはいるのではないかと思っている。そんな人はぜひやってみてほしい。ただし、一人暮らしでかつ来客が全くない人しか試せないとは思う。だって異常事態だもん。そんなトイレ。

 

たくさんのギミックがあるトイレ。そう、これは正気の沙汰ではないのだ。しかし正気に戻らないことこそが休日を過ごす上でなにより重要なことなのだと私は考える。

 

 

 

 

 

 

 

トイレでだって我を忘れていたい。

 

おしまい。 

悪いミッキーさんが来る

「おにから電話」というアプリがテレビで紹介されていた。鬼やおばけから電話がかかってきたという設定で言うことをきかない子供を脅かす子育てサポートアプリというものらしい。こわいイラストも表示されるほか、片付けをしないとき・嘘をついたとき・寝ないときなど様々なシチュエーション毎に音声が用意されていて手のかかる子供も言うことをきくということだった。濫用は良くない気がするが、最終手段的な扱いなら確かに保護者にとって有用なアプリなんだと思う。

 

「良い子にしないと鬼から電話がかかってくるよ!」これは聞きようによっては恫喝と取れなくもないが、育児・教育においてはそれも一線を超えない程度には必要だろう。誰もが多かれ少なかれ大人からそんな恫喝まがいのことをされた経験があるはずだ。かくいう私も幼稚園の先生にこんなことを言われていたのを思い出す。

 

 

 

「早くお片付けしないと悪いミッキーさんが来るよー!!」

  

 

 

今になって考えると「はい〜?」って感じだが、当時の私にはとても効果的な恫喝だった。片付けの時間になると、先生はピアノでめちゃくちゃキーを下げた『ミッキーマウス・マーチ』をゆっく〜り弾きながら言う。

 

 

  

「みんなー!!悪いミッキーさんが来るよ!!」

 

   

 

私はもうこの時点でガクブルである。「積み木あそび?なにが楽しいの?」って感じのませたクソ園児だった私だが、怖いものは怖い。そりゃもうすんごく怖い。悪いミッキーさんを止めるためならお片付けもやぶさかではない。しかしそれでもすぐに遊びをやめない根性のある園児もいる。そんな反抗的な園児を挑発するかのようにめちゃくちゃ低いキーのミッキーマウス・マーチはテンポを上げる。

悪いミッキーさんが走り始めるのだ!

 

 

 

「悪いミッキーさんが近付いてくるよー!!」

 

 

 

悪いミッキーさんがすぐそこまで来ているという実感。もの恐ろしさ。これには反骨精神溢れる園児達も形無しである。やんちゃボーイもおてんばガールも必死こいてお片付け。これは本能だ。園児としての本能で“悪いミッキーさんが来たら自分は終わり”そう直感している。

 

 

 

「悪いミッキーさんが幼稚園に着いちゃうよー!!」

 

 

  

お片付けが終盤に差し掛かるころ、めちゃくちゃキーの低いミッキーマウス・マーチもトップスピードになる。

悪いミッキーさんがこちらを捉えた……!?

もう明るく楽しい原曲の面影は完全に消え失せシューベルトの『魔王』さながらおどろおどろしい、恐怖を煽りまくる楽曲である。「お父さん!!お父さん!!」と叫ぶのもやむなし。子供は苦しみだし、やがて息絶えるかもしれない。

 

悪いミッキーさんに恐れ戦きながらどうにかこうにか片付けを終えると、ミッキーマウス・マーチはゆっくりフェードアウトしていき先生はこう言い放つ。

 

 

 

「みんながお片付けをしたから悪いミッキーさんは帰ったみたい。」

 

 

 

この宣言を聞いた瞬間、私達の顔に安堵の表情が浮かぶ。なんとか今回は助かった、と。

悪いミッキーさんはお片付けを終えると帰る。そういう性質があるらしいこともみな直感で理解していた。

 

そうして私達は幾度となく悪いミッキーさんの襲来を寸前で防ぎ、ついに卒園まで一度も悪いミッキーさんと相対することはなかった。

 

悪いミッキーさんはなんでお片付けをすると帰るのか。そもそも悪いミッキーさんはどう悪いのか。片付けをしなかったら私達は悪いミッキーさんに何をされていたのか。何もわからない。先生は悪いミッキーさんについて何も語らなかったから。確かなことは、私達がその悪いミッキーさんを恐れていたということだけである。

  

 

しかしいかんせん幼稚園児の頃の話だ。私の記憶に穴がある可能性も否定できない。そこで母に「あの悪いミッキーさんってのは何だったの?先生ほかに何か言ってたっけ?」と聞いてみた。すると母は「あははは、そんなのよく覚えてるね〜」とひとしきり笑ったあと、

 

 

「悪いミッキーさんは別に何もしないよ。ただ悪くて怖いの。それだけ。」

 

 

 

 

哲学か?

 

 

 

 

 

 

 

 

(先生のしていたことはミッキーマウスのイメージを損ないかねないことのような気がする。その点はいいのだろうか。大人になってしまった現在の私からすれば、悪いミッキーさんより怒ったディズニーさんのほうがよっぽど怖い。